極楽浄土の支配者である。では、なぜ作中では極楽にいる仏さまが悪役なのか。
小さいころ、テレビ(たしか、日本昔ばなしだったような……)で地獄の話をしていた。それを見た当時七歳くらいの私は「地獄マジこわい」「ヤベー、地獄に堕ちるよ俺」という恐怖の念におびえていた。「明日からは今までの堕落した人生を悔い改め、まっとうに生きよう」と誓った(七歳のくせに。一晩眠ってケロリと忘れたが)。それが私と「地獄」のファーストコンタクトだ。
で、時は流れ、私が十代後半のころの話。何がきっかけかは忘れたが、いわゆる「地獄絵図」を目にする機会があった。昔の絵巻物か何かだろうけど、とにかくムゴイ。容赦なくスプラッター。血の池、釜ゆで、針の山。鬼たちに一片の情なし。亡者をザクザク殺しちゃってるその絵を見て、私は恐怖と同時にある感情を覚えた。鬼たちを見て「こいつら、そんなに偉いのか?」。
ある種の怒り。疑問。地獄の鬼たちに「いちゃもん」をつけたくなった。それほど残酷な仕打ちをするおまえたちは、それはもう清く正しい立派な人生を送ってきたのだろうな、と。こういういちゃもんは「自分が死んだらたぶん地獄行きだろうなあ。でも勘弁してほしい」という自己弁護の裏返しだったのだろう。
それはともかく、鬼たちへのいちゃもんは、やがて鬼たちに命令をしている「閻魔」への疑問に変わり、最終的には善人だけに入国を許している「仏さま」への疑問となった。仏さまはそれほど偉いのだろうか、と。
このような疑問が、作中での極楽浄土や阿弥陀如来の設定につながった。法も証拠も手続きもなく人を裁く権利が、いったい誰にあるのだろうか。それは閻魔だから許されるのか。仏さまならよいのか。これが私の一貫した問題意識である。そのへんを読み取っていただけると、作者感激。最初の1ページ目に「仏法第9条 あらゆる亡者はひとしく裁判を受ける権利を有する」という言葉を入れたのは、こういった思いからである。
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